| 誰かの肩が凪紗(なぎさ)の額をグッと押した。凪紗はのけぞるような形になったが、後ろにいた誰かにまた押し返されて、体勢を元に戻した。 彼女は身動きが取れなかった。周りは黒っぽいスーツの集団で、ポマード、香水の匂い、口臭、体臭、衣服の防虫剤の臭いなど、多種多様な臭いが混ざり合って、渦巻いていた。気休め程度に、どこかでファンの回る音がする。冷房車両なのに、ちっとも涼しくはなかった。 体を全く動かせない凪紗は、腕の時計を見ることができなかったが、たぶん8時15分ごろだろうと思われた。 このすし詰めの電車に乗らなければ、学校に遅刻してしまう。 凪紗は寝坊して朝食を抜いてきた。そのせいだろうか、この気分の悪さは。いや、今日の車内は混雑が酷すぎる。時々呼吸ができないくらいの圧迫感を憶え、そして吐き気がこみ上げてくる。 電車がカーブを曲がるたびに、たくさんの人たちの体重が移動し、凪紗は肺を押しつぶされるのではないかという恐怖を感じた。 呼吸ができない! 凪紗の口からは、あああとためいきのような弱弱しい叫び声が漏れた。 それからしばらくして、電車が停まったのを、凪紗はなんとなく体で感じた。もうアナウンスもまともに聞こえていなかった。 人の波に押されて車内から駅へと放り出されると、もう立っていられなかった凪紗はその場で崩れるようにしてしゃがみこんだ。 そのまま駅のホームで両膝をつき、突っ伏して倒れてしまいそうになった、そのとき、誰かが凪紗の二の腕をぎゅっと掴んで引っ張り上げた。 「大丈夫か?」 男の声が凪紗に問いかける。 凪紗は朦朧としていて、応える力が無かった。 凪紗の腕を掴んでいた男は、その腕を自分の肩に回し、歩けない凪紗を引きずるようにしてホームを進んでいった。 とりあえずホームの椅子に座らされた凪紗は、脱力していて、ただ、運んでくれた人の体に寄りかかり、目を閉じていた。 「駅員呼ぶから、待っててな」 凪紗のそばで、そう声がした。 まって、行かないで。もう少し、このままで……。 凪紗がそう思ったのは、寄り添った硬いスーツの生地に沁み込んだ懐かしい匂いを感じていたからだった。 先生……。 離せない。そばにある腕を掴んだ。その手に力がこもる。 少しして、凪紗はそっと目を開けた。 彼女の顔を心配そうに覗き込む、若い男の顔に、少し明りが差したように見えた。その顔色の変化を見た凪紗は、彼が本当に自分のことを心配してくれていたんだと感じた。 見知らぬ人。薄いピンクのワイシャツに、ノーネクタイ。見栄えのいい顔と清潔感のある髪、年は22,23くらいだろうか。 「あの……」 凪紗はかすれた声で相手に問いかけた。 「仕事、遅れるんじゃないですか?」 若い男は優しく目元を崩して、首を横に振った。 「気にしなくていいよ」 優しそうな笑顔だった。 中学のとき凪紗は、学校の廊下の隅に追いやられて服を脱がされたり、トイレで頭から水をかけられたりして頻繁にいじめを受けていた。 そんなときにいつも、情けない自分を見つけて助けてくれたのは、ある男の先生だった。 先生は凪紗にジャージを渡してくれたが、同情するわけでもなく、正義の怒りを露(あらわ)にするわけでもなく、面倒くさいという感じでもなく、カーテン越し、まるで何事も無かったかのように世間話をしていた。 着替え終わって先生のそばにゆくと、にっこりと笑って、涙の跡の残る頬を両手で包むと、 「一緒に考えような」 と言った。 悲惨だと思われたいじめのある生活が、あの先生の笑顔で、なんでもないことのように思えた。 単純だったが、凪紗はその先生の存在だけで強くなれるような気がした。 目の前の男は、その先生と同じ匂いがした。 ピンチのときに助けてくれるヒーローの笑顔は、どれも胸の隅々にまで染み入るくらいに静かで優しい。 凪紗は、自分がその人の腕を掴んで離さないでいることに、やっと気がついた。 それなのに、ぎゅっと握った手を、離すことができなかった。 「家に電話する?」 男に聞かれて、凪紗は視線をはずして「だれもいないし」と漏らした。 「じゃあ、学校に?」 「少し休めば、なんとかなりますから……」 凪紗がため息を吐き出すように、そう言うと、相手は黙った。 凪紗は黙って目を閉じた。 少し蒸し暑いホームのベンチに身体を預けて座っていた。隣にはたまたま凪紗を助けてくれた男がいる。 「高校生だよね?」 凪紗は華奢だが背は高いし、白いブラウスとチェックのミニスカにハイソックスという、どこにでもあるような高校生らしい制服を着ていた。 「どこの高校?」 凪紗は男が学校に連絡したがっているのだと感じた。 すっと、凪紗は男から手を離し、ゆっくりと体を起こした。 「大丈夫?」 男は驚いて、ベンチから腰を浮かし、凪紗の方に両手を伸ばした。 凪紗は立ち上がり、ゆっくり一歩を踏み出した。しかし、まだ頭がフラついていたのだろう、二歩と歩けず倒れそうになった。 男はあわてて凪紗の後ろに立ち、肩を押さえ、よろける少女を腕で支えた。 「あのさ……」 男は少し語気を強くして、凪紗の背中に向かって言った。 「駅の医務室で横になるか、どこかで朝食を取るか」 男が言った言葉を聞き返そうと、凪紗は首を後ろに傾けた。 「どっちかに決めなさい」 凪紗はぽかんと相手の顔を見ていたが、男は真剣な目で凪紗の顔を覗き込んでいた。 駅前にある広いミスタードーナツの店内で、凪紗は朝食セットをとっていた。 その凪紗の前には、男がブレンドコーヒーを飲みながら、凪紗の様子を穏やかな視線で見つめていた。 食べ物をとったおかげで、凪紗の体調は急激に回復した。すると、二人でこうして向かい合っていることに、少しずつ照れが生じてきて、沈黙が痛くなってきた。 凪紗は思い切って口を開いた。 「お名前聞いてもいいですか?」 「ヤマダゴンベエ」 え?と聞き返したが、相手はニヤニヤと口元を緩めるだけだった。ヒーローは素性を明かさないもの、そういうものなのかな、と凪紗は思った。 「……し、仕事は?」 「バレエダンサー」 男は即答し、逆に質問してきた。 「君の名前は?」 「私は……」 凪紗は彼の冗談に返すつもりでいながら、なぜか、口からは違う言葉が出た。 「加藤凪紗。県立阿沢南高校1年7組」 凪紗は、言ったあと、無意識にうつむいてしまった。 なぜだろう。偶然助けてもらっただけのこの男に、自分のことを伝えたいと思った。忘れられたくないと思った。 そんなこと、無理にきまっているのに。 言ったそばから、忘れられているに違いない。 すると、男は少し意外だったようで、言葉を詰まらせ、視線を下げた。 「そうかあ」 訊いておいて、変な反応だなと思った。やっぱり、冗談で返したほうがよかったのかな。そう考えながら、凪紗はヤマダゴンベエなる人物を見つめた。 こういう席で、携帯を触らずに、対面してくれる人は珍しい。彼はただ、凪紗を見て、凪紗の体調を気にしているのだろう。 その昔に、先生が凪紗を思いやってくれたように。 そこには、恋も愛もなく、そうすべきだから、そうしたというだけのもの。 でも、凪紗は小さな恋の芽を、ずっと押し包めてきた。 報われない想いも、先生の笑顔が自分の方に向くだけで、それだけでよかった。 そんな先生を想い出させた、このバレエダンサー、ヤマダゴンベエは、しょせん、少し似ているだけの人。 そうなんだな、と納得した。 「今日はありがとうございました」 店を出た凪紗は、朝食代まで払ってくれたヤマダゴンベエに深々と頭を下げた。 「いいよ」 彼は凪紗の顔色をまだ少し心配している顔つきで、 「もうあの時間の電車にはできるだけ乗らないようにな。それと、ちゃんと朝食を取ること。わかった?」 と、言った。そして冗談めかして付け加えた。 「もし今度倒れてるのを見かけても、助けてやらないぞ」 また、この人に逢うことがあるんだろうか、と凪紗は考えていた。 遅刻ギリギリの電車に乗れば、また逢うかもしれない。でもあの殺人的な混雑の車内で彼を見つけることができるだろうか。 それに凪紗の家は夏休み中に引っ越すことが決まっていた。半月後だ。そうなれば、転校するわけではないが、通学する電車は違ってくる。 「たぶん、もう逢わないと思います」 凪紗はうつむいた。 すると、相手は店先の道路をゆっくり歩きながら、凪紗を振り返った。 「いやいや、意外と日本は狭いよ」 そして、彼はタクシーを拾い、凪紗を学校まで送り届けてくれた。 それから数ヶ月がたった。 季節は変わり、もうすぐ二学期も終わろうとしていた。 凪紗は相変わらずクラスの男子には興味を持てず、ときおり、ヤマダゴンベエのことを思い出していた。 甘い思い出はなく、ただ助けてもらって、ほんの半時間ほど一緒にいただけの人。心配そうな視線や、支えてくれた腕の力や、最後に言った言葉など、記憶の断片がほんの少し残っているだけなのだが、そのことを考えると幸せになる。 ほわほわした気持ちになる。 またいつかどこかで逢えるかも、なんて無意味な期待で恋心を持続させている。ぐるぐると同じおもちゃで遊ぶ、小さい子供のように、いつかは卒業してゆく感情だった。 その日も朝礼があるのに、凪紗は貧血で友達に付き添われて保健室にやってきた。 「先生、気分が悪いんです」 そう告げてベッドに寝た。 保健の北尾先生は、 「ちょっと私、朝礼で話をしないといけないから、ここ留守にするけど、一人で大丈夫かしら?」 と凪紗に聞いた。保健室には、凪紗しかいなかったからだ。 「大丈夫です」 これで気兼ねなく眠れると思った。 「朝礼が長引くようなら、手のあいてる先生に来てもらうわね」 「はい」 独り、静かな保健室に寝ていると、誰かが入ってくる気配がした。 カーテン越しに静かに声をかけられた。 「大丈夫? 北尾先生が帰ってくるまで、体育の黒木がここにいるから。なにかあったら言ってね」 凪紗はそういう男の声に首をかしげた。 体育の黒木って誰だ? 聞いたことが無い名前だった。 凪紗は体を起こし、そっとカーテンを開けて、黒木なる先生を見ようとした。見ようとしながら、訊いてみた。 「黒木先生……ですか?」 すると、カーテンの隙間から椅子に座ったスーツ姿の男が見え、凪紗と視線が合ってしまった。 「うん、よろしく。たった今着任の挨拶をしてきたところだよ」 先生は凪紗のベッドのカーテンをそっと開けて微笑んだ。 黒木は、まだ若く、穏やかな表情をして凪紗を見た。 中学のときに好きだった、優しい先生を思い出す。 同じ香り。 黒木は、起き上がっていた凪紗をそっとベッドに寝るよう促し、枕元にしゃがみこむと、小さな声で言った。 「ちゃんと朝食食ったのか?」 「いえ。食べてません」 「電車で倒れなくてよかったな」 「はい」 小さな恋の芽を重い石の下に隠していたのに。 そのまま想い出に変わるはずだったのに。 黒木が凪紗の名を呼んだ。 「な、逢えたろ」 <出逢い>完 |
このページの素材はMon petit bambin様からお借りしています。 <<Back <<Home
<<Next