| 窓の外の植樹は葉を落とし、灰色の枝を剣のように空に突き立てていた。教室の窓を少し開けると、冷たい風が滑り込んでくる。 期末試験は終わり、12月も半ばだった。加藤凪紗はいつも一緒に遊んでいるクラスメイト3人と、放課後、教室に残っていた。 「ナギサ、窓開けたりしないでよー。頭おかしくない?」 優希がグロスで白っぽく光った唇を尖らして言った。 「あ、ごめん」 凪紗は慌てて窓を閉めた。 中庭に向かっているこの窓から覗く景色は殺風景そのものだった。向かいの校舎の中の人影が動いていることくらいしか、目に留まるものはなかった。それでも、凪紗はよくその窓のそばに立ち、何かをじっと見つめていた。 「最近、ナギサ、ヘンだよー。何見てんのー? 三年に好きなヤツでもできたのー?」 「え、違うよ」 凪紗は慌てて首を横に振った。凪紗たちの教室の1年7組は2階にあり、向かいの校舎の2階には3年の教室が数クラス並んでいた。 「そういえばさー、三年もこっち見てるヤツいるよねー」 加南子が携帯を見つめたまま言った。 「なにそれ、男?」 「そうだよー」 「えー、キモーイ」 鏡を見て化粧を直していたひかりが、さも気持ち悪そうに顔を歪めた。 「どんなヤツよ」 「なんかー、背高くて、ボーズでー、あ、でもかっこいいボーズじゃなくって、単なる運動部ってゆーやつー?」 優希、加南子、ひかりは大笑いした。 「こっち見んな。サイテーだし」 三人の笑い声が、しばらく教室の中に響いていた。 凪紗は、また、窓の外を見ていた。先程、窓を開けたのは無意識だった。向かいの校舎に意識がいくあまり、間に横たわる窓が邪魔に感じたのだろう。 凪紗が見つめていたのは1階だった。東側の三分の一を占める職員室、それが彼女の視線の先だった。 職員室の窓際に、座っている先生がいた。凪紗の方に背中を向けている。一週間前からこの高校に赴任してきた先生。黒木孝輔。 彼がこの高校にやってきたのは、3年の体育担当の教諭が病気を理由に退職することが急に決まってしまったからだった。 凪紗が見るのは、いつも後ろ姿だった。体育科ならラフな服装でも構わないと思うのに、黒木はいつもスーツを着込んでいた。あの、凪紗が助けてもらったときと同じスーツ姿で、彼女の視線の先にいた。 「純也たちがカラオケ行こってさー」 「あー、あたしカレシと逢うからムリ」 「あたしもー」 「ナギサは行けるよねー?」 さっと顔をあげた凪紗は、問いかけてきた優希の顔を見つめた。 「あ、ごめん……私は……」 「なに? なんかあんの?」 優希の目は冷たく凪紗を見下ろしていた。あんたに用事なんてないでしょ? 彼女はそう言っている。あんたに断る権利なんてないのよ。せっかく仲間に入れてやってんのに、わかってんの? 「ううん。なんでもない」 凪紗はうつむいた。 「何時から? いつもの店だよね?」 黒木がこの学校に赴任してきた日に、保健室で逢って以来、凪紗は彼と言葉を交わしていなかった。言葉を交わすどころか、廊下ですれ違うことも、授業を受けることも、職員室で会うことも、まるでなかった。 時折、凪紗は考えた。保健室で再会したとき、彼女のことを覚えていた黒木は、幻だったのではないかと。 また、凪紗は考えた。黒木に対して、自分は何を期待しているんだろうと。 ヒーローはたくさんの人を救う。救い終えた人のことまで、面倒は見ていられないんだ。それなら、また助けてもらったらどう? 助けを求めたら、再び助けてくれる? そうして、凪紗は浅はかな思考に終わりを見つけられないまま、情けなさでいっぱいになる。 近づきたい。この気持ちを、どうやって伝えればいい? 「おい、ナギサ」 凪紗は呼ばれてはっと顔を上げた。 「おまえ、俺が歌ってたの、聴いてなかったろ」 そう不満げに凪紗の肩を掴んだのは、新原(にいはら)という、8組の生徒だ。 カラオケボックスには、純也と優希と凪紗の7組の生徒と、この新原の4人だけが残っていた。始めた時間には10人ほどが集まっていたのだが、3時間後ともなると色々な理由をつけて帰ってゆく。 「聴いてたよ。上手いよね」 「ウソつけ。お前はなー……」 新原は強引に凪紗の隣に座り込むと、彼女の右手を掴んだ。 「自分がちょっと上手いからって、人の歌を聴かないのはサイテーだあ」 新原はボックスに入る前に自販機で買ったビールを持ち込んでいた。顔には全く出ていないが、普段の態度とは明らかに違う。酒に酔って、凪紗に絡んでいるとしか思えなかった。 「ごめん」 とりあえず、凪紗は謝ることにした。しかし、新原の勢いは止まらなかった。 「なあにがゴメンだあ。思っても無いくせに」 凪紗はギュッと握られた右手が痛くて、顔をしかめた。新原が顔のそばで叫ぶのも耐えがたかった。優希や純也は、そ知らぬ顔で歌っている。 「俺はなあ、これでも一生懸命歌ったんだぞ。誰のために歌ってると思ってるんだあ、わかってんのか!」 「何のこと?」 聞き返す凪紗の髪を、新原は引っ張った。 「バーカ」 新原は凪紗に酒臭い息を吹きかけて、そう罵った。 凪紗は顔を背け、新原の手を振り解こうと、右手を引っ張った。座席を逃げるように移動した。しかし、新原は凪紗の傍から離れまいと追いかけた。 ついに、凪紗は大きくため息を吐き出して、カバンから財布を取り出した。そして千円札を一枚、バンとテーブルに叩き付けた。 「帰る!」 凪紗は誰の顔も見ないで、部屋を飛び出した。もうこれ以上は我慢できなかった。明日、優希がどんな態度をとるのか考えると気が重かったが、今は一刻も早くこの場所から逃げ出したかった。付き合いにも限界がある。 カラオケボックスを出ると、もう真っ暗だった。狭い部屋で淀んだ空気を吸っていた凪紗には、冷気が心地いい。まっすぐ駅に向かって歩き出した。駅はすぐそばだ。 時計を見ると8時前だった。 駅の改札の前で定期を探していると、誰かが走ってくる足音がした。 ふと振り返ると、凪紗の目の前に走り込んできて、肩で息をして顔を真っ赤にしている新原がいた。 凪紗は驚いて言葉を失くしていた。怖くて、逃げ出そうかと思ったが、逆に逃げることで相手を怒らせたりしたら酷い目に遭うかもしれないとも思った。 新原は血走った目で凪紗を睨みつけていたかと思うと、頭を下げ、黙り込んだ。 何も言わない新原に、凪紗は恐る恐る言葉を発した。 「勝手に帰ってごめんね……あの……」 新原は顔を上げたが、凪紗の目を見ずに言った。 「いや、こっちこそ、ごめん」 また、新原は頭を下げた。 「送らせて。話したいことがあるんだ」 凪紗は困惑し、何も言えずに新原を見つめた。 新原はゆっくりと顔をあげ、ようやく息も落ち着いたところで、つぶやいた。 「なんで今日酒を飲んだかというと、一大決心したからなんだよな……。酒飲んだの初めてでさ、ちょっと酷かった。ナギサが出てった途端、酔いが醒めた。あんなこと二度としない」 「そう……」 凪紗は少し安心した。今話しをしている相手は、仲間うちではおとなしい、普段の新原のように思えた。 「送ってもいい?」 新原は、動物が人を伺うような、臆病な瞳で凪紗を見た。 凪紗は言葉を飲み込んだ。 いいよ、と言おうとしたのだが、新原の向こうに人影を見つけて、言葉を告げなくなってしまった。 凪紗の視線が、自分の方に向いていないのを知った新原は、そっと後ろを振り返った。 「八時だぞ」 新原の後ろの人影は、彼に近づいて、その肩を掴んだ。 「黒木先生……」 新原は迷惑そうな顔で相手を睨みつけた。 黒木は、凪紗を見たが何も言わずに新原に話し続けた。 「ほらほら、いつまでこんなところをうろついてるんだ。腹減らないのか? 俺はもうさっきからグーグーいってるぞ?」 「どうぞ」 新原は場所を譲って、黒木に改札へ進ませようとした。 しかし、黒木は新原のポケットに手を突っ込み、 「定期は?」 と、探り始めた。 「あ、ありますよ」 「よし」 そして、凪紗の顔を見て、 「加藤、定期は?」 と聞いた。 急に言われて、凪紗は直立したまま、「あります」と答えた。 「よし、行くぞ」 黒木は二人の背を押すようにして、改札を通らせた。 上りと下りの階段が分かれている場所で、黒木が新原に言った。 「おまえ、名前は? 何年何組だ?」 訊かれて新原は渋々答えた。 「1年8組の新原です」 「なんで、加藤と一緒にいるんだ?」 新原は困った顔で凪紗を見た。 凪紗は黒木の顔を見た。 黒木は、無表情で凪紗と新原を交互に見ていた。 「なんでって……、一緒に遊んでたからですよ」 新原は小さな声で答えた。 「ふーん」 「ヘンな質問しないでください」 新原は覚悟を決めたように言った。 「センセー、オジャマなんですよ」 黒木は二、三秒の間を置いて、 「そーか」 と、大きな声でゆっくりと言った。 そして彼は目を細めて凪紗を見た。 凪紗は黒木の視線を受け止められずに、下を向いた。 責められているようだ。 黒木が不機嫌であるような気がするのは、単に遊んでいた凪紗たちをよく思っていないせいだろうか。それなら、叱ってくれれば済むことなのに。凪紗が黒木を失望させたような、そんなふうに受け取れた。 それにしても。 ずっと、こんなふうに偶然帰り道で会うことや、言葉を交わすことを夢想していたのに、どうしてこんな最悪な状況で会うんだろう。 「酒臭いぞ、新原」 「えっ……」 新原は驚いて黒木を見たが、黒木はもう新原の傍から離れようとしていた。 「じゃあな」 黒木は一人、上りのホームへ向かう広い階段を上り始めた。凪紗も同じ上りのホームだったが、その後をついて行けずに見上げていた。 すると、黒木がつと立ち止まり、振り返った。 「そうだ、加藤。おまえに言いたいことがあったんだ」 そして、黒木は凪紗を見て手招きした。 凪紗は一瞬戸惑ったが、おずおずと階段を上り始めた。新原はそんな凪紗を、下からじっと見つめていた。 何を言われるんだろう。 凪紗は恐怖にも似た期待と不安で、表情が強張るのを感じた。 凪紗が黒木のすぐそばまで来ると、彼は数秒凪紗の顔を見つめてから、口を開いた。 「女友達は、ちゃんと選ぶんだ」 凪紗は「え?」と聞き返した。 黒木はもう凪紗を見ずに、前を向いて階段を上ろうとしていた。 「先生?」 黒木は顔だけ振り返り、ふっと笑った。 その笑顔は、どういう意味ですか? きゅううと喉の奥が締め付けられるような痛みが走り、そのうち凪紗の胸全体に広がった。 黒木は階段を上りきり、もうホームに立っていた。もうすぐ電車が彼を連れて行ってしまうだろう。 その電車に乗りたい。このまま、階段を上ってついて行きたい。 しかし、体は震え、後を追う勇気もなかった。 拒絶されたら、勘違い女だと笑われたら、軽蔑されたら、そんな不安がぐるぐると頭の中を回っている。 新原に呼ばれるまで、凪紗は階段の真ん中でじっと黒木を見つめていた。新原は凪紗の傍までやってくると、怪訝そうな顔で彼女の目を覗き込んだ。 「何かヘンなこと言われたのか?」 凪紗は驚いて、「ちがう」とだけ言った。ホームに電車の到着を告げる音楽が鳴り響いた。 黒木は大勢の人に紛れ、電車に乗り込んだ。 その様子を目で追いながら、凪紗はため息をついた。 「ナギサ」 新原がそっと触れるように凪紗の手をとった。 凪紗は新原を見た。新原はまっすぐ凪紗の瞳を見つめていた。 「ここで言うつもりはなかったんだけど」 広い階段の真ん中で、二人は向かい合っていた。傍を幾人も人が通り過ぎる。 「可笑しくてさ。俺、いつも同じこと考えてるんだ」 新原はどこか自嘲気味な表情で話をした。 ホームから電車が出て行くのがわかった。凪紗は音だけでその光景を想像していた。 「ナギサと二人でいられたらって」 凪紗は瞬きをして新原を見つめた。 「いつから考えてたかとか、訊かないでくれよな。俺だってわかんないんだからさ。とにかく、今、マジでそう思ってるから」 新原は言い終わると、凪紗の手をとって、階段を上り始めた。 凪紗は黙ってその手に導かれるまま、ホームについた。もう、そこに黒木はいない。 新原は凪紗の想いの先がどこにあるかなど知らず、彼女の反応をうかがうように続けた。 「冬休み……クリスマスとか、一緒にいられないかな」 答えを求められていることに、凪紗はようやく気がついた。 そして、新原に即答できるほど、自分の気持ちがはっきりと形作られていることにも、気付かずにはいられなかった。 「私、好きな人がいるから」 凪紗は新原の目を見て、はっきりと言った。 好きな人がいる。 口に出すと、とても簡単なことのように聞こえる。幸せな響きもある。 でも、凪紗にとってその言葉は、自分を勇気付けるためのものだった。確かなものを一つ一つ数えるように、その言葉から始まるのだ。 好きな人がいる。 <片恋>完 |
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