| 優しい香りに包まれている。色で表すなら、薄いグリーン。 春の朝、木々たちが呼吸を始める空気に似ている。 凪紗は目を閉じ、夢想しながら、公園のブランコに揺られていた。 終業式以来、家から一歩も外へ出なかった凪紗だが、新原に呼び出されて仕方なく学校のそばの公園までやってきた。今日はクリスマス。 新原は、クリスマスプレゼントがあると言っていた。凪紗は貰うわけにはいかないと何度も断ったのだが、懇願されて会うことになった。 彼は一体何を考えているんだろう。 凪紗が「好きな人がいる」と告げると、すぐに、「いいよ」と答えた。 いいよ? 凪紗は聞き返した。 うん、いい。好きな人がいてもいいよ。俺はナギサが好きだ。時々会えたら、それでいいんだ。 その時の、下を向いた新原の表情はわからなかったが、声だけははっきりと聞こえた。 外で会うと寒いから、駅前のマクドナルドにしようかと新原は言ったが、凪紗は学校の近くの公園を指定した。 もしかしたら、黒木に会えるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。 約束の30分前から公園にいるのだが、雪が降ってきて、ただ寒いだけだった。黒木の姿も見かけない。 それでも凪紗は苦痛ではなかった。近くに彼がいるかもしれないと思うだけで、嬉しかった。 新原の姿が見えた。寒そうに肩をすくめ、帽子にマフラーで顔の半分を隠していたが、なんとなく背格好で彼だとわかった。 そして、彼の隣で楽しそうに笑っている同じ年頃の女の子を見つけた。 凪紗はブランコを止め、じっと2人を見つめた。新原が凪紗に気付いて、片手を上げた。隣の女の子が微笑んで凪紗を見た。 2人が近づいてくる前に、凪紗はブランコから立ち上がった。新原が凪紗の前に立ち止まり、「待った?」と聞いた。凪紗は首を横に振った。 「寒いなー」 新原の鼻先は少し赤くなっていた。 「えっと、こいつ、知ってる?」 新原が凪紗にむかって言い、隣の女の子の頭をポンと叩いた。その子は背が低く、少し小太りで分厚い赤のコートを着ていたので、まるで赤ずきんちゃんのようだと凪紗は思った。 「若野(わかの)みよ、です」 笑顔がかわいい。 「俺と同じクラスなんだ」 「あ、そうなんだ。全然知らなかった」 隣のクラスの女子とは体育や家庭科などの授業を合同で受けていたはずなのに、彼女のことは全く知らなかった。 多分、ほかの子のことも凪紗はあまり知らない。自分の友達のことで精一杯で、ほかのクラスのことまで気が回らなかったのだ。 「私はねー、加藤さんのことよく知ってるよー」 みよは相変わらず人懐っこく笑っている。 「背が高くて、スタイルがよくて、かっこいいなーって憧れてたの。すごく友達になりたかった」 「え? 私と?」 「うん。だから、新原くんに頼んで、紹介してもらおうって思った。私、ダメな子だから、恥ずかしくて直接話しかけられなくて」 凪紗は明らかに自分より友達づきあいの上手そうな、人に好かれるタイプのみよの言葉に驚いていた。 新原は凪紗とみよの顔を見比べてから、言った。 「ということで、これが俺のクリスマスプレゼント。じゃあ、俺は帰ります」 「え、新原くんっ!」 凪紗が声をかけても、新原は少し振り返って手を振っただけで、みよを残して帰ってしまった。 新原のクリスマスプレゼントは、凪紗にとって、とても衝撃的だった。 初めのうち、凪紗はみよの話を聞いているだけだった。みよは8組の生徒なのに、7組の様子をよく知っていた。あの子はマンガをたくさん持ってるんだよ、とか、あの子はボーリングで180出したんだよ、とか、あの子の弟はジャニーズ系ですごくかわいいんだよ、とか、いくらでも話が出てきた。 みよは8組はもちろん、7組の女子ともたくさん付き合いがあるらしかった。凪紗は、なんとなくそれらが自慢に聞こえて嫌になった。それが単なる僻(ひが)みだと分かってはいたが。 駅前のビルの、みよがお気に入りだというケーキ店に入り、2人はケーキセットを頼んだ。そして、凪紗はついに言ってしまった。 「そんなに友達多いなら、わざわざ私なんかと付き合わなくたっていいじゃない」 みよはその言葉に一瞬面食らっていたが、すぐに謝った。 「ごめんね、そんなつもりで言ったんじゃなかったの」 みよは泣きそうな顔で続けた。 「私ね、友達作るの下手だから、どうやったら友達になってもらえるかなって考えてばかりいて、話を途切れさせないようにとか、飽きられないようにとかって思ったんだけど……。ごめんね、ムカついた?」 「ううん。ムカついたりはしてないけど……」 凪紗は思った。みよは笑っているだけで、人に好かれる。そんなに苦労して気を遣って友達を作らなくても、大丈夫なんじゃないのか。 「友達作るのが下手っていうのは、私みたいな人のことを言うんだよ。若野さんは私とは人種が違う気がする」 「そんなことないよ、同じだよ」 みよは必死になって言い張った。 凪紗は、とうとう触れたくない自分の過去を引っ張り出さねばならなかった。 「私は……中学のときとか、結構イジメられてたし……」 うつむく凪紗の顔を覗き込むようにして、みよは言った。 「加藤さん、私もだよ」 凪紗が顔を上げると、みよは、やはりにっこりと微笑んだ。 凪紗とみよは急速に打ち解けていった。 凪紗の傷みをみよは理解していた。それだけで、感じたことのなかった安堵感を凪紗は与えられていた。 キツかったイジメの実態を告白しあった。 合うはずのない友達に無理して合わせてばかりいて、不自然だった自分が嫌いだったとみよは言った。凪紗は、何を考えているかわからないと友達に言われて、辛かったことを思いだした。一生懸命合わせているつもりが、空回りして本心を隠していると思われてしまった。 凪紗は思った。今も同じ状況ではないだろうか。自分を出せずに人の言いなりになることで、仲間に入れてもらっていた。でもそれは、本当の友達じゃない。 みよはバドミントン部に所属していて、凪紗にも入部するよう勧めてきた。 「私はあんまり体強くないし。運動は苦手」 凪紗は断ったが、みよはなかなか納得しなかった。 「でも、凪紗は背が高いし、勿体ないなー」 それは、年末に近い日のことだった。 いつものようにみよと電話で話をしていた。 「大晦日はどうするの?」 凪紗の問いに、みよは弾んだ声で答えた。 『顧問の家に遊びに行くんだあ』 「顧問? ああ、バドミントンの?」 『そう。黒木先生』 その名を聞いて、思わず凪紗は黙り込んでしまった。 『黒木先生に奢ってもらうんだー。何にしようかな、高いとちょっとかわいそうかな』 「そうなんだ」 凪紗はなんとか声を出すことができた。 『うん。凪紗も来る?』 「え?」 まさかの誘いに、凪紗はしどろもどろになった。 「わ、私は、黒木先生のことは、よく知らないし……」 『えー、うそお』 みよは不思議そうに言った。 『黒木先生は、凪紗のこと、よく知ってたよ?』 みよは言った。 『黒木先生は着任して間もなくうちの顧問になったんだけど、どんな人かなあって思ってたの。結構すぐ部にとけこんでた。カッコもつけないし、偉そうにもしないし、でも、なんていうかな、決して友達ではなくて教師だっていう線引きがあってね。そこが余計に頼れるし、安心できる人って感じなんだあ』 凪紗は相槌を打って、聞いていた。 『で、時々部活中に先生と目が合ってたから、もしかしたら、何か言われるのかなあって思ってたんだけど、冬休み前かな、体育館のモップかけしてたら、先生が来て、言ったの。7組の加藤凪紗って知ってるかって』 凪紗の脳裏には、駅の上りホームへの階段の途中に立って、自分を手招きした黒木の姿が浮かんだ。 黒木はこう言ったらしい。 若野と加藤は合うと思う。加藤に部活させてやりたいんだが、誘ってやってくれないか。きっとあいつも楽になれるんだけどな、と。 「もしかして、黒木先生に言われたから、私と友達になろうと思ったの?」 凪紗は初めて知った黒木の言葉に、動揺を隠せないでいた。興奮して口調が強くなった。 『そういうわけじゃないよ。前から気にはなってたから。でも、きっかけになったのは確かかも』 みよの言葉を聴き終わるや否や、凪紗は尋ねた。 「明日も部活あるの?」 『30日まであるよ』 「わかった」 『凪紗、どうしたの?』 凪紗は受話器を置いた。 29日。朝から大雪で、線路が白い綿の中にうずもれるようにして伸びていた。ホームで電車を待つ人々は、コートで体を覆い、傘を持ち、うつむき加減で立っている。 凪紗は高校の最寄り駅の一つ手前の駅のホームに立っていた。 本当は、最寄り駅で立っていたなら、確実に会えるのだろうけれど、今はここでいいと思った。この駅は乗り降りが少ない。電車の中の黒木の姿が、ほんの少し見られればいいと思った。 黒木に会いたかった。 朝の電車を何本も見送った。寒さで足がしびれた。でもベンチに座っていると電車の中がよく見えないので、ずっと立っていた。 細い柱によりかかり、過ぎてゆく電車を見送っているうちに、時計は10時になっていた。 もう黒木はどの電車かに乗っていて凪紗の前を通り過ぎ、見つけることができなかったのだろうと思った。 一人、ベンチに腰掛けた。 夕方の5時になり、また凪紗はベンチから立ち上がり、今度は反対側のホームに立った。 黒木がいつ通ってもいいように、電車が来るたびに車内を目で探した。何人か同じ高校の生徒の制服を見かけた。もちろん凪紗は私服だったので、彼らに見つかることはなかった。 足先や指の先の感覚が無くなって随分経つ。 しかし、やはり行き過ぎる電車の中に、黒木を見つけることはできなかった。いつのまにか、夜も更けていた。凪紗は足取りも重く、暖房の効いた車両に乗り込んだ。 そして、次の30日も、同じように朝も夕もホームに立ち続けた。 明日は大晦日で、みよは黒木の家に行くと言う。詳しく聞くと、バドミントン部の女子約半数で押しかけるらしい。その中に混じるのは、とても場違いな気がした。でも会いたくて、もっと言えば、二人きりで会いたくて、こうしてホームで立っている。なんだか、間抜けだなと思いながらも、黒木が凪紗を見つけてこのホームに降り立ってくれる、そんな都合のいい想像をしていた。 夜になった。7時でも真夜中のように暗く、寂しい。上りの電車の中にはもうあまり人は乗っていなかった。学校も会社も休みに入っているし、この時間から買い物に出る人もいない。時刻表は休日扱いになり、15分に1本という間隔でしか電車は来ない。 やってきた電車をあまり期待もなく、見つめた。車内は暖かい光で包まれていた。ホームの蛍光灯の青白い光とは対照的だった。 もう、この電車に乗って帰ろうかな、と凪紗は思った。 会ったとしても、黒木に何を言えばいいのかわからなくなってきた。何を告げたくて、ここに立つことを決めたのか、もう定かではなくなってきたのだ。 凪紗のポケットで携帯が震えた。凪紗は目の前の電車から視線を落とし、携帯を取り出した。みよからの電話だった。 『いつも外だねー。寒いのに、買い物か何か?』 昨日も何度かみよから電話があった。普段は家の電話で話しているため、わざわざ携帯にかけなおしてくれている。不在がわかるのも当然だ。 「うん、買い物かな。もう帰るけど」 凪紗はうつろな表情でそう答えた。 『ねえ、明日、一緒に先生のとこ、行かない?』 みよから何度目かの誘いを受けた。凪紗は寒さに身震いした。 「大晦日は用事があるんだ」 そう言って、下を向いた。足元に昼まで降っていた雪の跡が残っていた。そのコンクリートに沁みた水の上に、また、粉雪が落ちてきているのに気付いた。 「また、明日電話する」 凪紗は話を続ける気力がなくて、早々に電話を切った。 電車はもう出てしまい、人々が足早に階段を下りてゆくのがわかった。 見上げた夜空に、チラチラと白いものが漂っている。吐き出す息は白く、モノトーンの世界が凪紗の目の前にあった。 ふと、こちらに近づいてくる足音を感じて、視線を向けた。 スーツの上にコートを羽織った男性が重そうなカバンを手にして歩いてきた。あまりじろじろと見るのも失礼なので、一瞬だけで、すぐに前を向いた。 「加藤」 凪紗はビクッとして振り返った。 3メートルほど距離をあけて、その男性は立っていた。 「寒いのに、どうしたんだ?」 優しい声は、ずっと聞きたかった人の声だった。あれほど、期待したシーンなのに、本当に起こると、信じられずにあたふたした。 「先生」 「昨日の朝も見た。昨日の夕方も見た。今朝も見た。……この二日間、こんなところで何やってたんだ?」 私服の私に気付いてくれたんだ、と凪紗は嬉しくて、でも黒木の少し問い詰めるような視線に逃げ場を探していた。 「先生に、聞きたいことがあって」 なんとか、言葉を搾り出した。 黒木はとても驚いた顔で、 「俺か? ……俺か??」 と大きな声を出した。 「どうして、学校に来ないんだ。どうして、こんなところで……。連絡くらい取れるだろう?」 黒木は凪紗に近づき、カバンを足元に置くと、両手で彼女の頬をそっと包んだ。 「冷て」 苦い顔をして、黒木はため息をついた。 「時間がよければ、晩飯でも食いながら話しよう。おいで」 黒木は凪紗の肩をぽんと叩いた。 凪紗は目の前の黒木の顔は見れず、ただ、胸の辺りに視線を漂わせていたが、そっと手を伸ばした。 「加藤……?」 凪紗は憧れていた人の胸に額をつけ、そしてゆっくりと体を預けた。 黒木の背中に手を回すと、自分の居所が見つかったような気がした。 「会いたかったんです」 いつも夢想していた、黒木の匂いが鼻腔をくすぐった。 このひと時が永遠であったらいいと、思わずにいられなかった。 <告げる>完 |
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