アマノガワ

 

 地下鉄の階段をのぼって地上に出ると、夏の強い日差しで街は白く照らされていた。ノースリーブのワンピースから出た肩から腕がその日差しを受けて、まるで日の光に質量があるかのようにじんわりする。
 眩しさに思わず右手を目の上にかざして歩調を緩めた私の横を、かたかたと柔らかい木の足音をさせて浴衣の女性が追い越して行った。藍色の浴衣と朱色の帯が楽しそうに揺れながら小走りに遠去って行く先で、甚平を着た茶髪の男の人が手を振っている。
 待ち合わせかな、と思う。
 今夜は夏祭りの前夜祭の花火大会で、この地下鉄の駅から歩いて十五分くらいの河川敷が打ち上げ会場になっている。この辺りでは一番大きな花火で、電車の中でも、浴衣姿の女の子を何人か見掛けた。
 道路脇のコンビニでは、花火客ねらいなのか、店の前にパラソルを立てて、クーラーボックスで冷やしたペットボトルの飲み物を売っていた。買おうかどうしようか少し迷って、結局素通りする。
 着慣れないワンピースの長い裾が足に絡んで、歩きにくい。白い生地に裾と袖の部分だけ青く柄の入ったワンピースは私のお気に入りで、滅多に着ない一枚だった。
 真昼の日差しの中で、五分も歩かないうちに私は汗だくになる。化粧も、せっかく選んでつけてきた香水も、全部パーだ。
 花火があがるまではまだ四時間もあるのに、川へ向かう道はいつもの数倍の人出で、レジャーシートを抱えた人も多かった。そういえばレジャーシートなんて持ってきていないけれど、聡は持ってきてくれるんだろうか。……期待するだけ無駄かもしれない。
 私は歩きながら一人で苦笑する。
 一年ぶりに会う彼が、去年と変わっていなければ、そんな気の利いたものはまず思い付きもしないだろう。自分がジーパンで、道路に座るのも平気だから、私のことになど頭が回らない。そういう男だ。
 駅から川へ向かう途中の脇道を曲がって、さらに曲がり角をひとつ曲がってすぐのこぢんまりとしたカフェに私は向かう。表通りからは気が付かない場所にある所為で、いつも客は少ない。高校時代から時々使っていたお店だった。
 ドアを押して中に入ると、クーラーで冷やされた空気が一気に足元から押し寄せて、背中にかいた汗が冷たくなった。それが心地よいような不快なような、不安定な気分で板張りの店内に足を踏み入れる。
 サンダルのヒールがかつかつと神経質な音を立てた。五つあるテーブルのうち、入り口から一番遠いテーブルに座っていた背中がふり向いて、私を確認すると、よう、と右手を軽くあげた。
「久しぶり」
「久しぶり」
 私も右手をあげて応える。
 一年ぶり。
 前に会ったのは、去年の花火の時だったから、本当に丸々一年間の空白期間で、聡は、少し痩せていた。
 白いティーシャツにジーパンという全くの普段着姿なのは、毎年変わらない。高校時代、私たちが付き合っていた頃からずっと、花火もクリスマスも初詣も、着飾るということをしない男だった。
「いらっしゃいませ」
 私が聡の向かいの席に座るのを待ち構えたように、店員が水の入ったグラスとお手拭きを持って近寄ってくる。私は、テーブルの隅に立てかけられたメニューを流し読みして、アイスカフェオレを注文した。
 注文を聞き取った店員がぺこりと頭を下げて店の奥に入っていくのを見送ってしまうと、あとはもう、二人で話を始めるしかない。
 私はいつも、この最初の数分がひどく苦手だ。
 別れた男と、久しぶりに会って、最初の数分。
 どんな態度をとればいいのか、どんな話をすればいいのか、分からない。一度話し始めてしまえば、会わずにいた時間は一気に帳消しにされて楽になるけれど、その最初のきっかけをどこで掴めばいいのかが分からないのだ。
「この辺も、去年とだいぶ変わったなあ」
 のんびりと聡が言った。
「最近、こっちに帰ってきてないの?」
 私が聞くと、少し困ったように、笑った。
「ここ何年も、花火の時しか帰って来てないよ」
 聡がこの土地を離れたのは、三年と少し前、高校卒業と同時のことだ。ここから電車と飛行機を乗り継いで行く遠く離れた大学に、ひとりで進学して行った。
 高校一年の時から付き合っていた私と別れたのは、それから半年も経たないうちだった。
 別れたいと言ったのは、私。
 別れた後も、途切れ途切れに当たり障りのないメールのやりとりが続いている。そして、毎年夏になると「花火を見に行く」と言って、聡はここに帰ってくる。
 別れたいと言ったのは私だけれど、毎年のこの花火を誰よりも待っているのも、私だ。花火を見に来る彼を。
「ほら、駅のすぐ前にあった本屋もさ、なくなったよね」
 聡は手のひらで駅の方角を示しながら、話を続ける。
 改装したスーパー。店じまいしたコンビニ。新しいマンション。
 私は、彼の挙げるものがいつ出来たのか、いつ消えたのか、ひとつひとつ答えていく。当たり障りのない、誰とでも出来るそんな会話を、私は一年間ずっと待っていたのだった。
「どんどん知らない街になるなあ」
 聡が、いつになく感傷的にそんなことを言う。
 私は、「もっと帰ってくればいいのに」という一言を、声に出さずに飲み込んだ。
 別れたいと告げた私から、もっと会いたい、なんて、言える訳がない。そんなこと、言ってはいけない。
「お正月も帰ってないんだ」
 なるべく平然と、私は話を続ける。
「全然。親は諦めたらしくて、帰って来いとか言う前に、向こうから会いに来るし」
「そうなんだ」
「帰る理由なんて、ここには、もう無いよ」
 聡は、私に当てつけるようでもなく、単なる事実のように淡々とそう言った。
 帰る理由なんて無い。
 ……それじゃあ、どうして、今日ここにいるの。どうして私の前に座ってるの。
 私は何も言えずに、目の前に置かれた水のコップに指を押しつけた。コップの表面についた水滴が指を伝ってくる。
「お待たせしましたー」
 ちょうど良いタイミングで店員がアイスカフェオレを持って来て、私はストローの袋を破る作業に逃げ込んだ。

 
 四年前、高校三年の夏。
 聡から、地元ではない遠く離れた大学に進学するつもりだと打ち明けられた時、私は簡単にそれを受け入れた。
 模試のたびに志望校のひとつにその学校を挙げていたのを知っていたし、なにより、距離や会えない時間のせいで、二人の関係が壊れるなんて思いもしなかった。
 高校時代、同じクラスだった聡。お調子者で、友だち思いで、付き合おうと言われた時は、嬉しかった。一緒にいればそれだけで楽しかった。これが永遠に続くのだと思っていた。
 遠距離恋愛なんて続かないと、情報としては知っていたけれど、自分は大丈夫だと根拠もなく信じて、笑って「いってらっしゃい」とまで言えた。
 それから一年も経たない三年前、その私は、会いたい時に会えない距離が耐えられずに、どうしようもなくなって、別れてほしいと懇願していた。
 ただ無性に淋しかったのだ。
 聡は春に引っ越して行って以来一度も帰って来ず、メールや電話は頻繁にやりとりしても、それで埋められる空白には限りがあった。
 聡と話がしたくて、会いたくて、触れたくて、でもそれが出来なくて。
 そばにいてくれない大好きな人より、そばにいてくれる他の誰かの方がましだと思った。今振り返っても、どうしてあの時あれほど淋しかったのか、分からない。
 聡は最初は、四年間だけ我慢してほしいと、そう言って別れることを拒否したけれど、最後は私の言葉を受け入れる形で、さよならをしてくれた。
 別れれば、楽になるのだと思っていた。会いたい人に会えない苦しさも、遠く離れている不安も、消えるのだと。
 でも、そんなことはなかった。
 だって、苦しさも不安も、その人と付き合っているから生まれるものではないから。付き合っているからじゃない。好きだからだ。
 私が彼を好きじゃなくなるしか、この苦しさから逃れる方法は、無いのだ。
 いっそ、嫌いになってしまいたかった。
 けれど、嫌いになることも出来ず、とりあえず他の誰かを見付ける気にもならず、ずるずるとすべてを引きずったまま、三年が経ってしまった。
 二度と会わなければ、もしかしたら、想いも切れたかもしれない。
 別れてすぐの、花火の日。前々から、花火には帰る、と言っていた聡は、「とりあえず帰るから。友だちとして、一緒に見に行こうよ」と、私を誘い、私は頷いた。
 友だちとして、とか、花火、とか、そんな部分に頷いたのではなくて、ただ、会いたかったから。
 本当にただの友だちのように、少しのぎこちなさと一緒に花火を見上げた帰り道、聡は「また来年も誘うかもしれない」と言い残し、私はそれを頼りに一年を過ごした。
 そして翌年も、私たちは一緒に花火を見上げ、「また来年」と別れ際に手を振って、それ以来、一年待てば会えるという、細い細い、けれど切れそうで切れない期待の糸を、私はぎゅっと握ってしまったのだった。
 もう一度付き合いたい、と言う勇気は無い。第一、一度逃げ出した私にその権利は無い。
 それでも、今でも、好きだから。
 一年に一度、なんて、七夕様のような、けれど織姫と彦星よりはるかに不毛な独り相撲の恋愛を、私は勝手に続けている。
 一年にたった一度でも、聡から会いに来てくれることに、わずかな期待を捨てきれないまま。


「そろそろ、行こうか。場所取らないと」
 ひととおり、一年分の街の変化と友人たちの近況を話し終えたところで、聡はそう言って腕時計を見た。
 花火の打ち上げまでは、まだ少し間がある。
 けれど、私たちはお互いの近況に触れないまま、席を立った。
 私は、地元の企業に就職が決まっていたけれど、聡の進路は想像がつかない。何にしても、就職してもこちらには帰って来ないのかもしれない、と思った。
 触れたがらないというのは、きっと、そういうことなのだろう。
 私たちは、別れて以来、あまりお互いの話をしない。聡に新しい相手が出来たのかどうかも知らない。
 本当は聞きたいけれど、聞きたいからこそ、その話題を避け続けている。
 伝票を取ってさっさと行ってしまった聡の後を追いかけて、レジで後ろから500円玉をトレーに割り込ませた。
「別にいいのに」
 聡は不満そうにそう言って、店員から受け取ったお釣りから律儀に私の分のお釣りを返してくる。
 鈴のついたドアを開けて外に出ると、日差しは夕方らしく少し弱まっていたけれど、強烈な暑さが体にまとわりついた。
「今年はどこで見ようね」
「堤防はいっつもすごい人だからなあ」
 私たちは、少し余計に間隔を空けて、並んで歩く。
 店のある通りから道を曲がって、川へ向かうメインストリートに出ると、駅から来た時よりさらに人出が増えていた。
 浴衣姿も多い。高校生くらいのカップルが笑顔で目の前を行き過ぎて、私はひそかに羨ましいと思った。私もああして笑っていたことがあったはずなのに。
 思い出にぼんやりしそうになった時、半歩前を歩いていた聡が振り向いた。
「ほら」
 そう言って、左手を差し出された。
「なに?」
「はぐれないように」
 私が咄嗟に何だか分からずにいると、聡は返事も待たずに、私の右手をぐっと握って私を引き寄せた。
「これだけ人が出てると、一回はぐれたら面倒」
 前を向いたまま、まるで言い訳のようにそう付け加える。
 じんわり汗ばんだ手が、熱かった。
 誰かと……聡と手をつなぐのなんて、何年ぶりなんだろう。
 私は、手を引かれるままに歩いていく。去年はどうしただろう。確か、やっぱりこんな人出の中、私ははぐれないように聡の背中を必死に追いかけて行ったのだった。
 今日は、どうして。
 言葉を交わさないまま、私たちは手をつないで、人の流れに乗って川までの道を歩いた。
 花火が打ち上げられる中州の対岸の堤防は、もうすっかり人で埋め尽くされている。私たちは、何年か前に陣取ったことがある、少し離れた橋のたもとまで歩いて、そこで腰を落ち着けることにした。
 川岸の木が花火の一部にかかって見にくいので、あまり人気の無いスポットなのだ。それでも、芝生で平らなところはあらかた人で埋め尽くされて、残っているのは川に近い斜面になった部分だけだった。
 予想どおりレジャーシートも何も持っていなかった聡は、堤防から川面へ下りていく階段にそのまま座り込み、私も仕方なく、コンクリートを気休めに手で何度か払ってその隣に座った。薄くて柔らかなワンピースの生地を通してコンクリートの硬さが伝わってくる。
 花火を待つ人たちのざわめきと、道端に出た屋台からの香りと、暑さと、毎年何も変わらないと思う。 
 けれど、私たちは変わっていくんだろう。
 来年も、会えるのだろうか。
 私が一人で俯いた時、しばらく無言がちだった聡が口を開いた。
「口実がなきゃ、手もつなげないんだな、もう」
 私が横を見ると、聡は少し遠くを見るようにしていた。だんだんと日が傾いて、薄く色づき始めた空の方を。
 答えようがなく、私はじっとしていた。
 口実がなきゃ、手をつなぐどころか、もう会うことも、出来ないよ。
 そうしたのは、私だけれど。
 それを悲しいと、聡が今も思ってくれているのなら、やり直すことが出来るのかもしれない。でも、いまさら。
 いまさら。
「あのさ」
 少し黙った聡が改めて口を開き、私は何かの予感で川面を見下ろしたまま固まった。
「院に行くことにしたんだ。とりあえず、あと二年は、向こうにいる」
「うん」
「その先も、こっちには、帰らないと思う」
「……そっか」
 どこかで分かっていたことだった。
 たぶん、その次に続いた言葉も。
「向こうに、彼女が、いる。この先ずっと、一緒にいる奴が」
 私はじっと、流れていく川の水を見つめていた。何度か大きくまばたきをしてみたけれど、涙は出なかった。
 口実があったって、手なんてつないじゃいけないんじゃないの。
 冷静に、そんな突っ込みも出来そうだった。けれど、声を出す前に吸い込む息が震えた。
 俯いた私と、空を見上げた聡と、並んで座ってしばらく黙っていた。
 橋の向こうの花火観覧のメイン会場で、アナウンスが始まる。打ち上げまであと三十分。
「……来年も花火、見に来ていいかな」
 上を見上げたまま、聡が言った。
 私は俯いたまま、黙って、小さく頷いた。
 別れようと言いながら想いを切れない私も、彼女がいると言いながら年に一度の口実を繰り返す聡も、どちらも卑怯で不実だった。
 身を投じれば空の果てまで流される大きな川が、もうどうしようもなく私たちの間にはあって、いまさらどれだけもがこうと、その流れを渡ることは出来ないのに。
 それでも、いつか誰かを傷付けてしまうとしても、私たちはわずかに許される束の間の逢瀬に縋り続けるのだろう。
 どうしようもなく。


image from 「Amanogawa」(S.O.S)

 

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