Love  or  Happy

 
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 規則的な音をさせて次々と紙を吐き出していたプリンタが、どこかでつまづいたように突然動きを止めて静かになった。事務机から顔をあげると、近くの壁際に設置されたプリンタの前面でエラーを示す赤いランプが点灯していた。
 事務室の中には、私の他にもちらほらと残業をしている人がいる。電話の音と話し声で騒がしい昼間とは違い、みんな静かに机に向かって自分の仕事に熱中していた。
 プリンタは、この部屋にひとつしかない。それをみんなで共用している。紙詰まりか、用紙切れか。大量に印刷をかけている本人がエラーに気が付いて出てきてくれるかなと期待して、少し待ってみた。けれど、誰も立ち上がらない。
 私はため息をついて、机の上の仕事をとりあえず中断して、プリンタに歩み寄った。別に私が印刷指示をかけた訳ではないけれど、共用プリンタである以上、気が付いてしまったのに知らんぷりしているのもどうかと思う。
 既に100枚近い印刷済みの紙が排紙トレイに溜まっていた。用紙切れかな、と思ったけれど、小さな情報ディスプレイには「紙詰まり」のマークが出ていた。
 表示された場所から詰まった紙をひっぱり出していたら、プリンタのすぐ脇のドアが開いて、隣の資料室から出てきた人影が足を止めた。
「ああ悪い、印刷してるの俺だ」
 上から降ってきた彼の声に、私は、自分の仕事を中断してきて良かった、と思う。
「紙詰まりしたみたいです」
 引っぱり出したじゃばらになった紙を見せると、ああそう、と無表情な返事が返ってきた。声の主の顔も、無表情。
 二年上の先輩、加川さん。いつもきっちりスーツを着こなし、きつい眼差しには銀縁の眼鏡。思わず視線が止まるくらいの整った顔立ちだけれど、表情には愛想の欠片もない。
 性格も。必要な言葉は交わすけれど、それ以上の会話は皆無。
 半年一緒に仕事をして、このひとが笑ったところを見たことがない。
 開いたプリンタカバーをぱちんと閉じると、プリンタはごとごととしばらくアイドリングをしてから、また順調に紙を吐き出し始めた。
 そこまで無言で私の側に立っていた彼は、印刷が再開したのを見届けると「どうも」と気のない台詞を残して、さっさと自分の机に戻ってしまった。
 私は、折れ曲がった紙詰まりの紙をゴミ箱に突っ込みながら、こんなことで嬉しくなっている自分は、よほど望みのない恋をしているんだなと思う。
 こんなことが、ここ一週間で一番の幸せなんて、控えめにもほどがある。
 ……幸せってなんだっけ。
 自分の席に戻って、仕事の資料を広げながら、鼻歌を歌ってみた。
 ポン酢しょうゆはキッコーマン。


「ポン酢はミツカンだし」
 と、目の前で中ジョッキを勢い良く傾けていた後藤先輩が、突然そう言い出したので、私は目をぱちぱちとさせてしまった。
 先輩は、ばっちり赤いマニキュアを塗った長い爪でポテトをつまむ。片手にジョッキ、片手にポテト。カッコ良い。
 後藤先輩は、私より10歳近く年上の「カッコ良い女」の見本のような人だ。私は入社した時から色々教えてもらっている。仕事もだけれど、主に、飲み屋の場所を。
 仕事の後、週に一度はこうして二人で居酒屋に立ち寄るのが習慣だった。
「あんたもあの鼻歌のくせ、直さないとそろそろ歳がばれるよ」
 ようやく、先輩が何を言いたかったのか分かった。さっきのを聞かれていたに違いない。
 確かに、キッコーマンのあのCMソングなんて、最近の人は知らないんだろう。
 幸せってなんだっけ? と意味深に聞いてきながら、間髪置かずに、ポン酢しょうゆはキッコーマン、と畳み掛ける、人を食った感じが私はとても好きだったのに。今でも無意識のうちに繰り返し歌ってしまっていることがある。ほとんど私の人生のテーマソングみたいなものだ。
 歳がばれたって、別にいいけど。当年とって29歳。そろそろ崖っぷち。でもいまだに男性経験皆無。
「気が付くと歌っちゃうんですよ。ほら、幸せと縁遠い生活してるから」
「だから?」
 そう聞いてくる先輩は、意地悪な訳じゃない。
 私を心配しているのだ。
 40歳を目前にした先輩自身は、「これが私の人生設計だから」と独り身であることを恥じても誇ってもいないけれど、私はそこまでは強くなれないことを知っているから。
 曖昧な姿勢のまま独りでいるのは、淋しい以上に不安だから。だから早く、自分の立ち位置を決めろと、先輩は良く言う。
 私が曖昧な発言をすると、こうして突っ込んでくれるのだ。
 下手な自虐は何にもならない。自分の不安に拍車をかけるだけだよと。
「キッコーマンが幸せなんだったらスーパーで買えて便利かなあ、とか」
 私がそう答えると、がっくり脱力された。
「それは、確かに便利だけどさ。……あんた、自分の幸せが何にかかってるのか、考えてる? 自分の幸せの1割でも2割でも男にかかってるって思うなら」
 次に言われることは分かっているので、先回りをした。
「加川さんのことはさっさと諦めろ、でしょう。先輩が言いたいのは」
 先輩は、顔の前で、ポテトの油で光る人差し指をぴんと立てた。
「その通り」
「でも、私はまだ何の行動も起こしてないし、ふられる前に諦められるほど、この人生に納得してません」
 偉そうなことを言ってみたら、眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をされた。
「ふられたってふられなくたって、加川は無しでしょ」
 ジョッキをごとんとテーブルに置いて、先輩が言い捨てる。
「左薬指に指輪してる男なんて、そもそも最初から好きになるもんじゃないよ」


 加川さんは、左手の薬指に指輪をしている。ごく普通の、輪っかだけのシルバーリング。
 でも、たぶん、今はひとりだ。
 誰も加川さんのプライベートを知らないから、正確な情報はないけれど、「逃げられた」噂と、「先立たれた」噂が半々。今も一緒にいる、という噂はひとつも聞かない。
 本当は、そこを確かめなくては最初の一歩も踏み出せないのだけれど、そんな微妙なことをどうやって確かめればいいのか、足踏みしたまま半年が経ってしまった。
 到底、そんなことを聞けるような人ではないのだ。
 仕事の話はごく普通にする。必要な会話は惜しまない。
 けれど、仕事に必要のない言葉が加川さんの口から出ることは、無い。全く無い。話しかけても、気のない返事でさっさと追い払われるのがオチだ。
 たとえば、この前誰かが「加川さんのお家は新聞何とってますか?」と聞いたら、「朝日」の一言しか返ってこなかった。しかも相手の顔も見ずに。何とか質問をつなげば会話も続くのかもしれないけれど、はっきりいって、コミニュケーションをとっているというよりは、こちらが尋問しているようにしかならない。
 加川さんとちゃんと顔を合わせて会話らしい会話ができるのは、本当に仕事の話題の時だけなのだ。仕事の時だけ私たちと同じ世界に降りてきて、あとは涼しい顔で違う世界にいる人。
 後藤先輩は、その性格については、たで食う虫も好きずきだから、と特に何も言わないけれど。
 たとえ逃げられたにしても先立たれたにしても、いまだに指輪を外していない時点でそんな男は論外だ、という先輩の言うことはもっともだ。
 私の幸せの中で、男の人によって得られる部分は、1割2割では済まないと思う。私には、ひとりでずっと生きていくのは無理だ。誰か、絶対に相手が要る。「友だち」じゃない相手が。それは分かっている。
 そしてそれはきっと、加川さんじゃない。心に一番近い指に約束の指輪をしているような男の人じゃない。それも分かっている。
 でも、諦めることは、好きになることの何倍も、難しい。


 諦めるのには理由が必要だけれど、誰かを好きになるのには理由は要らない。
 今年春の異動でこの支店に配属になった加川さんを初めて見たのは、早朝の事務室だった。
 私は三ヶ月に一度の清掃当番で、始業の一時間前に出勤していた。派手な音をさせて掃除機をかけていたら、まだ誰も来ない時間のはずなのに、入り口のドアが開いて、加川さんが入ってきたのだった。
 見知らぬ人が入ってきたことにびっくりして、でも、今日異動してくる人がいるという話は一応おぼえていて、どんな反応をしたものか分からないまま掃除機を止めた。
 がらんとした事務室はしんと静まって、加川さんがこちらをちらりと見た。
 ぺこりと私は頭を下げ、加川さんも無表情のまま小さく会釈をした。でも、それだけ。
 社交辞令の挨拶も、自己紹介も、無し。
 沈黙に耐えかねた私が、加川さんのために準備された机を案内すると、「どうも」とやっぱりにこりともせずに頷いて、その机に落ち着き、すぐに抱えてきた資料を広げ始めたのだった。
 仕事熱心にもほどがある。
 どういう人なんだ、と、最初の五分はものすごく反感を感じた。初対面の人間がいたら、少しでもコミニュケーションをとろうと思うのが普通だと思っていたから。こんな人と一緒に仕事なんて、やりにくいだろうなと。
 加川さんが私のことなど全く眼中にないので、私も、加川さんを眼中に入れずに当番の仕事を再開することにした。掃除機のスイッチを入れ、がしがしと掃除をした。机の雑巾がけ。花瓶の水換え。喫煙エリアの灰皿の点検。
 支店の他のメンバーが出勤してくるまでの三十分、面識のない二人が一つの部屋にいてずっと無言。でも、居心地悪かったのも、なんだこの人、と思ったのも、本当に最初の五分だけだったのだ。
 無視されたから無視し返そう、とは思っても、やっぱり見知らぬ人のことは気になってしまう。掃除をしながら、ちらちらと加川さんの様子を窺った。
 加川さんは、茶色い鞄からファイリングされた資料の束と銀色の筆記具を取り出して、軽く頬杖をついて、何かメモをしながら伏し目がちに資料をめくっていた。
 良く磨かれた革靴や、皺ひとつ無いスーツの肩まわりや、長い指や、ブレの無い眼差しや、薄い唇や、そういうものたちの、一体何が理由だったのか、私には分からない。
 そもそもたぶん、理由なんて無かったのだ。
 出会った五分後には、私はもう加川さんを好きになっていた。
 同じように、今から五分後に加川さんを諦められられたら楽なのに。

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