Love  or  Happy

 


 二日酔い休暇の翌日は土曜日で、予定外の三連休を過ごしてしまった休み明けの月曜日。
 三日間、コンビニに出る以外は家にこもりっきりで独りでぐるぐると考え続けて、結局何の結論も何の決意もないままの職場復帰だった。
 ずっとこのままでいられたらいいのに。このまま歳をとらずに、このまま異動もなくて、このまま加川さんは相変わらず無愛想で、このまま私はその加川さんを遠くから窺っているだけで済めばいいのに。
 そう考えると、私は今が一番幸せなのかもしれなかった。
 将来変化しなければいけないから、
今を素直に肯定できないだけで。
 今のままでいられればいいのに、今のままでいたら、いつか私はひとりに耐えられなくなり、いつか加川さんは舞ちゃんのような他の誰かと仲良く出掛けて行くようになるのだろうと、嫌な未来ばかり予想出来てしまうから。
 しょせん、幸せなんてポン酢しょうゆのキッコーマンのはずなのに、私の手からはひどく遠い。
 同僚に金曜日の休暇を詫び、自分の席に積まれた休んだ分の仕事の処理時間を目分量で計算し、私は消化不良の想いを頭の隅に追いやった。
 加川さんはまだ出勤していない。
 出勤してきた上司にも急な休暇を謝罪すると、「もう大丈夫なのか」と真顔で体調を心配された。いつもそんな優しい言葉をかけてくれる人ではないのに、こういう私が後ろめたい時ばかり、後ろめたさに拍車をかけるような心配をしてくれるのは、どういうことなんだろう。
「もう、全然。ただの風邪です」
 へらへらと笑ってやり過ごし、自分の机に戻ろうとしたところで、出勤してきた加川さんとすれ違った。
 私はとっさに顔を伏せてもごもごと早口で「金曜日はすみませんでした」と詫びるのが精一杯で、そのまま脇をすり抜けようとした。顔を見てしまったら何も言えなくなりそうだった。いつもなら、向こうは目礼程度で足も止めないくらいだ。
 けれど。
「大丈夫?」
 幻聴かと思った。
 すれ違いざまのタイミングで、横からかけられた声に、私は思わず振り返った。
 加川さんはすでに後ろ姿で、さっさと自分の席に着くといつものように鞄から資料を取り出し始める。もう私の方を振り返りもしない。
 私は宙を浮いてしまった返事を持て余して、振り返った姿勢のままカニ歩きで自分の席まで戻り、椅子に座ってようやくぎくしゃくと顔を元に戻した。そこで向かい側からこちらを見ている後藤先輩と目が合った。
 先輩は、こちらにぱちっと目配せをすると、すっと事務室を出て行った。そういう仕草がとても色っぽく似合うのが羨ましい。たぶん、先輩に泣かされた男の人も多いんじゃないかと思うけれど、そういう話をすると嫌がるので、聞いたことはない。
 もう一度、加川さんの席の方をうかがったけれど、加川さんはもういつもの加川さんで、私のことなど全く眼中に無かった。
 私は机の上の仕事を脇に押しやって、後藤先輩を追って事務室を出た。先輩は、事務室の扉のすぐ横で私を待っていた。始業間際の時間、廊下は慌ただしく人が行き来して、立ち話をしていても目立たない。
「もう大丈夫なの?」
 先輩も、まず心配してくれた。先輩は体調不良の原因を知っているので、気が楽だ。
「大丈夫です。ただの二日酔いですもん」
「あれだけ飲めばね……自業自得」
「分かってます」
 私が少しむくれると、先輩は笑った。
「まあそれはいいけど。さっき、加川が珍しく人間ぽかったわね」
「びっくりしましたよ〜!」
 私は声をあまり大きくしないように、その代わりに目一杯力を込めて訴えた。
「あんまりびっくりして、何の返事も出来ませんでしたよ! どうしちゃったんですか加川さん」
 後藤先輩は、盛り上がる私を前にして、ちょっと浮かない顔をする。
「それがさ、金曜日にちょっと一騒動あってね」
「騒動……ですか」
 先輩は脇の壁に左肩を付けて軽く寄りかかるようにしながら腕組みをした。
「中込が加川を泣き落としてお持ち帰りしてったの。私はどうでもいいと思うけど、あんたに報せずにいるのも何だから、一応教えとく」
 泣き落として? お持ち帰り?
 どういう状況?
 私が話を飲み込めずに目をぱちぱちさせていたら、先輩に腕を伸ばして頭をぽんと叩かれた。
「私は勧めないけど、後悔したくないなら、ここはちょっと踏ん張りどころなんじゃないの?」


 後藤先輩によれば、金曜日の業後、舞ちゃんは果敢にも加川さんに再アタックを試みたらしい。
 仕事を終えて帰ろうとした加川さんに「この後お暇なら夜ごはん御一緒させてください」と声を掛け、案の定「悪いけど急ぐから」と一蹴された。舞ちゃんは諦めずに「じゃあ駅まで御一緒してもいいですか」と食い下がったけれど、加川さんは「急ぐから相手はできない」と相変わらずつれない。
 そこで舞ちゃんは少し真面目モードで詰め寄ったらしい。
「私だからダメなんですか、それとも他の誰でもダメなんですか。私がこうするの迷惑ですか」
 と。
 みんなが聞き耳をたてる中でそういうことを言えてしまうところが、呆れるより尊敬に値するわね、と、先輩は笑っていた。確かに私には全く真似ができない。
 加川さんの返事は、
「少なくとも今は迷惑してる。悪いけど他の男当たって」
 というもので、その程度の言葉は舞ちゃんもたぶん覚悟の上だったと思うのだけれど。
 そこで舞ちゃんは、加川さんのスーツの袖口をぎゅっと掴んで、そのまましくしく泣き出したらしいのだ。加川さんが舞ちゃんの手から袖口を引き離そうとしたけれど、案外怪力の舞ちゃんはしがみついて粘った。
 そんな愁嘆場を見せつけられて仕事をストップさせられた上司が、
「加川、少しは優しくしてやれ」
 と、見かねた一言を発して、加川さんは無言で泣き続ける舞ちゃんを袖口にぶら下げたまま事務室を出ていった………、というのが、騒動の一部始終らしい。
「まあ、あの後二人がどうこうなったとは思えないけどね」
 と、後藤先輩は言った。確かに。
 でも、舞ちゃんが本気で加川さんを落としにかかったのだとしたら、たぶん、二人がどうこうなるのは時間の問題なんだろう。それが継続的な関係になるのかどうかはまた別の話として。
 現に、加川さんの今朝の人間らしいあの「大丈夫?」の一言は、加川さんの中で何か変化があった証拠なんじゃないだろうか。他人に目を向けるような変化が。
 このままでいたい、このままでいられたらいいのに、なんて思っている私は、置き去りにされるだけだ。
「良く考えなさい。ある程度は協力するよ」
 先輩の言葉に頷いた。
 たぶん、先輩の言う通り、ここは踏ん張りどころなんだろう。
 でも、何か行動を起こすべきなんだろうか。頑張って、傷付いて、そうしてもしも万が一、加川さんが手に入ったとして……私は幸せになれるんだろうか。
 ここで何もせず、中途半端に失恋しておいた方が、私は幸せなんじゃないだろうか。
 ぐるぐる考えを巡らせる私の脇を、出勤してきた舞ちゃんが通り過ぎて行った。
「おはようございまーす」
 可愛らしい声。香水のいい香り。
 かなわないな、と、思った。
 こんなに可愛くて、男慣れしていて、涙まで自分の意思通り使いこなせてしまう女の子をライバルにして、男性経験なんて雀の涙ほどもないこの私がどうしたら勝負できるんだろう。
 金曜日に醜態をさらしたというのが嘘のように、舞ちゃんは元気だった。向こうの方の舞ちゃんの机の島で、いつも通りに挨拶を交わし、いつもの調子で笑う。
 その後に続くように私と先輩も事務室に戻り、自分の席についた。椅子に座りながらちらりと加川さんの席をうかがうと、加川さんはいつも通り、自分の机に広げた書類に目を落としていて、舞ちゃんには目もくれずにいた。
 少しだけ、安心する。
 もう少し、このままでいてもいいのかな。
 金曜日の仕事の山に手を伸ばしながら、そんな甘いことを考えた、その時だった。
 加川さんが手にしていたペンを置き、ゆっくり立ち上がった。そのまま落ち着いた歩調で事務室を横切っていく。
 その背中を、私だけではなく、事務室中の目が追っていた。それはそうだろう。金曜日に一騒動起こした二人組が週明け早々にツーショットなんて。
 舞ちゃんの席の脇に立った加川さんは何か言い、椅子に座ったままの舞ちゃんは加川さんを見上げて笑った。加川さんは相変わらずの無表情で、何を言ったのか私のところまでは聞こえなかったけれど、悪い雰囲気ではなかった。
 加川さんはスーツのポケットから何か取り出し舞ちゃんに渡した。小さな何か。
 二人が言葉を交わしたのはほんの十秒足らずで、加川さんはすぐに自分の席に帰って来る。私は慌てて目を伏せ、自分の仕事の書類をばさばさと意味もなくめくった。
 動揺していた。
 加川さんが仕事以外で自分から誰かに声をかけるなんて、それだけで私なんてもう半分くらい失恋したも同然だ。踏ん張りどころだと言われても、踏ん張る足場が見付からない。
 斜め前の席の後藤先輩が、小さな付箋紙を丸めて私の席に投げてきた。
 広げてみると、一言。おそらく加川さんから舞ちゃんに渡された物が、先輩のところからは見えたんだろう。
『たぶん、ピアス?』
 もう絶望的だった。


                                         (つづく)

                                       
 



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