etude

 
 ニセアカシアの緑が揺れる中庭を、生徒たちが群をなして歩いていく。
 高らかな笑い声が溢れている。六時間の苦行を終えて下校していく楽しげなざわめきだ。
 少女ばかりの集団の、甲高くせわしない喧噪にも、最近ようやく慣れた。ここに来たばかりの頃、女子校という職場にいっとき嫌気がさしかけた一番の原因は、その傍若無人なけたたましさだったものだけれど。
 明日からは中間試験。生徒の職員室への立ち入りは禁止され、部活動も原則休止のこの期間、僕がいる音楽室のある教務棟は静まり返る。一階が職員室と事務室、二階以上が各種特別教室で、音楽室は最上階の三階。
 それでも、窓を開け放っているので、はるか下の生徒たちのざわめきはここまで伝わってくるのだった。
 僕は、音楽室の隅の事務机で譜面台の注文用紙を書いている。
 昨日、僕以外のもうひとりの音楽担当教師であり吹奏楽部の顧問であるところのミセス田島から、譜面台が二つほど壊れて使い物にならないので、事務方に新しく買うよう注文しておいてほしいと頼まれたのだ。僕は、昨年定年退職したおじいちゃん先生の後釜としてここに採用されたばかりの新人教師で、対する田島先生は勤続二十年目のベテランだから、雑用は自然と僕に回されるのだった。
 物品購入請求書に品番を書き込むためにカタログをひっくり返していたら、横から呼ばれた。
「せんせぇ」
 甘えるような声の主は、さっきから僕の視界の端でうろうろしていた高等部二学年の生徒。彼女は良く僕のまわりに現れて、なんとか僕を振り向かせようと、僕にとっては可愛らしくも鬱陶しい努力をしているのが手に取るように分かる。
 黒く長い髪と白く細い手が印象的な、目元の涼しいきれいな少女。
 今日も、試験直前だというのに、他の生徒の姿が無いのを良いことに音楽室にやって来て、僕の仕事を眺めていた。
 振り返ると、彼女は音楽室の主、ヤマハのグランドピアノの天板の上に座って、足をぶらぶらさせながら、僕がそこに放置していたショパンの楽譜集を開いていた。
「ピアノは椅子じゃないよ」
 僕が注意すると、彼女は降りるどころかにっこり笑って、僕にひらりと手を振るとそのまま上体をピアノの上に倒して横たわってしまった。
 グランドピアノの上にセーラー服で寝そべる女子高生、なんて、出来の悪いあやしいビデオのオープニングみたいだ、と思って、僕は顔をしかめた。
「先生、、ねえねえ、ピアノ弾いて」
「上に人が乗ってるピアノなんて弾かないよ」
「でもこうやって聴いたら、すごーく良く音が聴こえると思うの」
「蓋閉めて、しかもその上に人間乗せたピアノがうまく鳴るなんて思わないけど」
「じゃあ試しに。減るものじゃないんだし」
「……あなたがピアノから降りたらね」
「弾いてくれたら降りる」
 この強気はなんなんだろう、と、彼女に対していると僕は良く困惑する。
 若い故の強さなのだろうか。たぶん、僕に振り向いてほしくてたまらないくせに、僕を不愉快にさせる言動を平気で繰り返す。
 繰り返されているうちに、僕も慣れてしまうのが恐ろしい。
 こうやって慣れて、許して、受け入れてしまうのは、教育上良くないのかもしれないけど。
 僕はため息をついた。
「弾いたことがある曲じゃないと、さすがにすぐには弾けないよ」
 持っていたボールペンを机に投げ出して、そう答える。
 彼女は仰向けに寝そべったまま楽譜をぱらぱらとめくった。
「じゃあ、書き込みがしてあるのなら大丈夫?」
「大体はね」
「革命。練習曲第12番ハ短調」
「……どうしてそういう疲れる曲を選ぶのかな」
 僕がピアノの方へ近付きながら嫌な顔をすると、彼女は笑った。
「嫌がらせじゃないからね」
「左手もっと練習しろっていう遠回しな嫌味かと思ったけど」
「単純に好きなの、この曲」
「僕は怒ってる感じがして好きじゃない」
「でも激しくて良いわ」
 彼女は真面目な顔でそう言う。クラシックなんて聴いて、上辺だけでなく好き嫌いを話せるような子だとは思っていなかった。
 僕は意外な思いでピアノの上に寝そべる少女を見た。
「激しいのが好きなんだ」
「そう。妊娠しそうな感じ」
「……怖いことを言わないでくれるかな」
「そう? こう、胃の下の辺りに来る感じ、って言えばいい?」
「いや、どっちも言わなくていい……」
 彼女は小さく笑う。僕が嫌がるのを分かって言っているのだ。
 女であることを過剰に主張しようとしている。
 この校内では特別な意味を持つことなど欠片もない主張を、こうして事あるごとに繰り返す。
 けれど、彼女は外へは出ていかない。
 女性ばかりの閉ざされたこの小さな繭の内、絶対安全な校舎の中で、こうして僕と向き合って、挑発するような姿で僕を覗き込んでいるだけだ。
 女子校、なんていうバランスの悪い空間にいる生徒たちは、僕から見れば大体三つのパターンに分化している。
 一つは、この敷地内に籠もる気なんてさらさら無くて、放課後は街に出てどこかのツテで知り合った男子と遊んでいる子。
 もう一つは、本当に男なんてものには興味がない子。じゃあ何をしているのか、と言われても、彼女たちは僕なんかには興味が無くて、ほとんど交流を持たないから僕は知らない。
 最後の一つが、中途半端に異性が気になって、それでもこの敷地の中のアンバランスな快適さを捨てることが出来ないでいる子。彼女たちは、僕を始めとする学校内の数少ない男性や、声をかけるあてすらない通りすがりの隣校の生徒や、芸能人を相手に、安全圏内で自己完結の恋をする。
 たぶん、彼女も。
 こうやって僕のそばには来るけれど、そして彼女なりに真剣ではあるのだろうけれど、僕はその誘惑に手を出すことを最初から期待されていない。
 僕が本当に振り向いたら、どうするつもりだろうね、君は。
 僕は、彼女が横たわりそこから見下ろしてくるピアノの前に座り、鍵盤の上のカバーを外した。
 差し出された譜面を受け取りざっと見返す。最後に弾いたのは数ヶ月前だ。自分が書き込んだメモを目で追って、感覚を思い出した。
「じゃあ、特別サービスで」
 鍵盤に指を置き、楽譜立ての向こうを見遣ると、彼女は僕に向かって微笑んだ。
 苛立ちながら、心の中は冷めながら、それでも僕は本当は、こうして彼女に笑いかけて欲しがっているのかもしれない。
 そう思いながらその微笑みから目を逸らし、一呼吸置いて、最初の和音を、指を叩き付けるくらいの強さで始めた。
 左手が絶え間なく細かい曲線を描くパッセージを繰り返す中に、右手を慟哭のように置く。
 君の希望どおりに、激しく弾いてあげよう。
 その体が僕の音を孕むように。
 絡まりそうになる指を、感情で走らせる。
 彼女はまるで楽器に溶け込もうとするように、震える黒い天板にぴったりと俯せに体を寄せ、頬を付けて、目を閉じた。白い額にかかった長い髪はそのまま黒い天板にその先を同化させて、全てを黒く映すそのなめらかな楽器の表面と彼女は本当に一体になってしまったようだった。
 音楽は僕の指から鍵盤を伝い、ハンマーを介して弦が鳴り、その音が黒い天板を震わせる。
 そして彼女の体には、音は振動として伝わり、その全身は僕の音で満たされているのだった。
 革命と名付けられた旋律は激しく悲しく波を作り、彼女は表情も無く、ただ、その波の底に横たわっている。僕の指先の下に。
 いつかこの狭く穏やかで危うい繭の中から飛び立って、どこかの男の腕に抱かれる時、君の体は僕のこの音を思い出すだろうか。

 明るく、風の美しい中庭に、ピアノの音が流れていく。
 隠しようもなく。

 

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